いまだから話せるラリーレイド挑戦の真実

「もうバイクには乗りたくない…」初めて出場したラリーレイド『ファラオラリー』のゴールでの第一声だった。苦痛から開放された瞬間、安堵のあまりに思わず口からでた言葉だった。それなのになぜ、その後ラリーレイドの虜になってしまったのか。 いまだから話せるラリーレイド出場の真実を明かす。

Pharaohs Rally 1984

1984年ファラオラリー走行シーン

#01 ベッドに舞い込んできたファラオラリー開くボタン

 1984年7月、僕は東京・飯田橋にある東京厚生年金病院の整形外科病棟4階のベッドに横たわっていた。
 当時、ザ・バイク(毎日新聞社・刊)のカメラマンだった僕は、ザ・バイク編集部のスタッフやフリーランスらと桶川(埼玉県)のモトクロスコースでモトクロスを楽しむはずだった。ところが、当日の練習中に左膝の靭帯を切断する怪我をしてしまった。すぐにレースを断念すればよかったのだが、いままで1度も大きな怪我をした経験がなかったため、走りたい一心で足の痛みを堪えてレースに出場した。走行を続けるにつれて足の痛みはどんどん広がっていく。当然、ギャップがあってもスタンディングはできないし、ジャンプなど飛ぶことすらできなかった。なんとかゴールしたものの、足が着けないためマシンを止めることができず、みんなに支えられてようやくマシンから降りた。しかし、歩くこともままならず、モトクロスコースから近い病院へ女性編集部員にクルマで連れて行ってもらった。そのとき初めて入院しなければならないほどの怪我であることがわかった。
 渋谷区初台のアパートで一人暮らしをしていた僕は、アパートの近くにあった鉄筋3階建ての玉井病院に入院することになった。いまでこそ怪我の経験も豊富になったので病院の良し悪しが分かるようになったが、当時は見栄えのいい病院なら心配ないだろうと思っていた。それが失敗だった。

ギプス画像

ギブスには「ロスマンズ・ファラオラリー、チャレンジ!」の落書きが。心はすでにエジプトに向かっていた。

 入院することになった玉井病院では、痛めた左足にギブスを巻かれ、膝の皿の部分だけギブスを切り取り、毎日膝のマッサージと赤外線を当てるだけの治療が始まった。病室には、いまにも逝きそうな老人やチンピラも入院していた。ある日外来治療室で治療している間に同室の老人は息を引き取ったらしく、病室に戻ったら老人の寝ていたベッドを看護婦がベッドメイキングをしていた。夜は、入院しているチンピラの仲間が遊びにきて、面会時間も過ぎているのに病室で漫画を見ている。院内放送で消灯時間の案内が流れ、病室の電気が消えたとたん、「だれじゃー、電気消したのはー」と見舞いにきたチンピラが大声を張り上げている。夜に外来治療室で赤外線を当てていたところ、救急病院になっているのか救急車で患者が運ばれてきた。患者は男性でお腹のあたりが痛そうでウーウーとうめき声を上げていた。しかし、当直の医師は外科の専門医で内科のことが分からない。悩み抜いた末、その医師が言ったことは「まっ、痛み止めの注射を打ちますから、それで一晩様子を見ましょう。明日には分かる医師がきますから」。患者の奥さんらしき付き添いの女性は、もう1度患者の男性を救急車に乗せて去って行った。別の救急病院に行ったのだろう。その夜勤の医師に聞いたところ、医師はアルバイトで夜勤をやっているらしく、アルバイト料は一晩で10万円貰えるとの話だった。

入院中看護士さんと

長い入院生活で体調はすこぶる快調に。たくさんの看護婦さんとも友だちになれた。看護婦さんの女子寮にも遊びに行った。

 なーんか変な病院だなーと人ごとのように思いながら1ヵ月ほど入院していたが、膝の腫れが引かないばかりか、膝に水がたまりぶよぶよしている。怪我に無知だった僕もさすがにあきれ、院長に「治るどころか余計腫れあがって悪化している」と言うと、院長曰く「他の病院に行ってもらって構わない」と。あきれ果てること頂点に達し、すぐにその病院を出た。
 それからというもの、整形外科の優れている病院を探し、スポーツ整形に力を入れており、ラクビーの新日鉄釜石のキャプテンだった松尾選手など、多くのスポーツ選手が治療に来ていたという、東京厚生年金病院に再入院することになった。膝の権威である片山先生が僕の担当医になった。すぐに膝の外側靭帯が切れていることが分かり、そのまま手術することになった。
 再び1ヵ月の入院を余儀なくされたが、今度はなんの心配もなく入院できる。2週間後、手術した左足はギブスが巻かれ、まだ動かせないが、右足や上半身の筋トレが始まった。僕のリハビリの担当医は、シンクロナイズドスイミングのオリンピック代表、小谷美加子選手のトレーナーをやっていた先生で、僕のトレーニングメニューを組んでくれて毎日トレーニングを行った。早寝早起き、規則正しい(入院)生活にトレーニング。お陰で入院する前よりもすこぶる体調がよかった。
 整形外科病棟の患者は明るく、たくさんの患者や看護婦さんと友だちになり、楽しい入院生活を送っていたが、早く仕事に復帰したかったし、バイクにも乗りたかった。そこへザ・バイクの編集部員だった岡村が、新しいラリーレイド情報を持ってやってきた。初めて耳にするラリーレイドの話を聞いた瞬間、僕はベッドから飛び起きた。そのラリーレイドの名は、日本ではほとんど知られていなかった『ファラオラリー』だった。
#02 病院から抜け出しガレージ通い開くボタン

 初めて経験する大きな怪我に、1ヵ月以上も入院したら仕事がなくなってしまうのでは…という不安もあったが、いざ入院するとそんな不安もどこへやら。同じ整形外科病棟に入院している患者や看護婦さんらと仲良くなり、入院生活を大いに楽しんだ。リハビリで筋力トレーニングもやっていたので入院前より体調はすこぶるよく、その分、病院食ではカロリーが足りず、いつも午後3時か4時になると病院の食堂にラーメンを食べにいった。若かったのだ。
1984ファラオラリー 準備

出場を決めてからは病院からガレージに通い、自由に動けない自分にいら立ちながらマシンの改造を行った。

 病院にはたくさんの仲間が見舞いにきてくれた。いっしょに持参される品は、果物やカップラーメン、ウイスキー、日本酒と多種多様で、その処理に頭を悩ませるものも…。しかし仲間想いの僕は、大切な仲間たちの好意を無駄にはできないと、病棟が消灯になるとカーテンを閉め、ベッドの上で毎晩チビチビやるのである。ところがアルコールの匂いは意外と強く、ベッドのカーテンにオーデコロンを振りかけ、ウイスキーは牛乳で割ってカモフラージュしながらいただいた。このときに初めてウイスキーの牛乳割りを経験したが、これがなかなかイケることを知ってから、現在もたまに自宅で牛乳割りを飲むときがある。本当に困ったのは日本酒の一升瓶だ。ビンの大きさもそうだが、コップにつぐとき「トクッ、トクッ、トクッ」と音が出る。これが消灯後の静まりかえった病室で結構響くのである。お陰で音を出さずにつぐ技を身につけた。
 患者が退院する前日の夜は、患者仲間が飲み物やお菓子などを持ち寄って病棟の談話室に集まり、退院祝いをやるのだが、牛乳を飲んでいるのに患者の顔が赤い…看護婦さんも気付いていたと思うが、見て見ぬ振りをしてくれた。そんな楽しい入院生活を送っていたが、早く仕事に復帰したかったし、バイクにも乗りたかった。
 そんな矢先に、ザ・バイク編集部の岡村が、初めて耳にする『ファラオラリー』という新しいラリーレイド情報を持ってきた。エジプトで開催されるファラオラリーは、まだ日本ではほとんど知られていなかった。岡村は、この話を日本レーシングマネージメントの菅原義正さん(現在も日野レンジャーでダカールラリー世界最多出場記録更新中)から聞いてきたのだった。僕も岡村もオフロードバイクが大好きで、当然のようにパリ・ダカにも憧れていた。当時はパリ・ダカに出場した日本人はまだ数えるほどしかおらず、情報源も乏しかった。出場経験のある友人らの話を聞いて「いつかはパリ・ダカ…」と、漠然と夢を膨らませるだけだった。
 入院中のベッドに舞い込んできたファラオラリーは新鮮そのものだった。パリ・ダカが無理でもこれなら出られるかも…と気持ちが先走りし、体が熱くなった。ラリーレイドの知識もろくにないまま、僕と岡村は興奮し、気持ちが高ぶった勢いで「出よう!」と出場を決めたのである。怪我をしていることなど、まったく気にもしなかった。これにもう一人、バイクジャーナリストの柏も加わることになった。
 出場マシンは3台ともホンダXLX250R。ホンダの協力があったことと、当時の市販オフロードモデルではもっとも信頼性が高かったからだ。
「出場する!」と決めてからの入院生活は慌ただしかった。ファラオラリーは10月9日にスタートする。出場マシンは8月末には船積みしなければならない。それまでにマシンの改造を行わなければならなかった。
 僕は、病院からマシンのあるガレージに通うことにした。午前中にリハビリを済ませ昼食を食べた後、外出届を出して病院からガレージへと通った。もちろん、左足はギブスなので松葉杖がないと歩けない。そこで病院に原付スクーターを持ち込み、スクーターに松葉杖を括り付けてガレージへ通った。スクーターは病院の職員駐輪場に無断で止めていた。当然マシン改造のためにスクーターで外出することは病院には内緒だった。
 ガレージに向かう途中、スクーターで信号停止するときなど、左足が出せないので意識して右足を着くようにしないと立ちゴケしてしまう。バランスを崩しかけてタクシーの屋根に手をついて謝ったこともあった。マシンの改造中もついつい左足がギブスであることを忘れ、パーツを取ろうと左足から踏み出し、倒れたこともあった。自由に動けない自分にいら立ったりもした。
 マシンの改造は、改造というほどのものではなく、ビックタンクにサブタンク、オイルクーラーを取り付けた程度でエンジンや足回りはストックのままというシンプルなものだった。ナビゲーションもいまのようにルートブックホルダーもなく、アルミの板をハンドルバーに固定し、蝶ネジでルートマップを挟むという、至って原始的な方法だった。もちろんGPSなんてなかった時代だった。

ホンダXLX250R

イタリアで車検を受けた後のホンダXLX250R。

#03 お守りにもらったベルギー女性の○毛開くボタン
1984ファラオラリー 準備

ベルギーのブルッセル空港に到着した岡村、柏、そして僕(左から)。

 病院のベッドの上で初めて耳にしたファラオラリー。「出場する!」と決めてからの入院生活は慌ただしかった。ファラオラリーは10月9日にスタートする。出場マシンは8月末には船積みをしなければならない。それまでにマシンの改造を行わなければならなかったため、僕は病院からマシンのあるガレージに通うことにした。
 左足はギブスが巻かれているため、病院に原付スクーターを持ち込んで、スクーターに松葉杖を括り付けてガレージへ通った。
 しかし、改造といってもビックタンクにサブタンク、オイルクーラーを取り付けた程度でエンジンや足回りはストックのままというシンプルなものだった。シンプルというより、当時は改造のノウハウもなく、どこまでどう改造したらいいかも分からなかった。ナビゲーションもいまのようにルートブックホルダーもなく、アルミの板をハンドルバーのブルッジに固定し、蝶ネジでルートマップを挟んで1枚1枚めくっていくという、至って原始的な方法だった。もちろんGPSなんてなかった時代だった。
 ある日、ホンダにファラオラリーのVTRがあること聞きつけ、ホンダ本社内で見せてもらうことになった。ホンダ本社がまだ原宿にあったころだ。僕は病院を抜け出し、岡村とホンダ本社に出向いた。世界中から送られてくるニュースなどを受けとるテレックスの音が途切れることのない部屋で、ファラオラリーのVTRを見せていただいた。テレビモニターごしに初めて見るファラオラリーに汗だくになりながら興奮した。その日ホンダ本社は夏休みで、社内のクーラーはすべてストップしていた。クーラーのない真夏のビル内は興奮しなくても汗だくになる。ファラオラリーのVTRを見てからは不安より期待のほうがが大きく膨らんでいった。
 3日間で改造したマシンはなんとか船積みに間に合い、僕も9月の頭に病院を2ヵ月ぶりに退院した。退院後もしばらくリハビリのため通院が続いた。
 ファラオラリーの開催はまだ3回目だった。当時、日本でファラオラリーの存在をしっている人はほとんどいなかった。ファラオラリーの情報源である菅原さん(日本レーシングマネージメント=JRM)は、なんと軽トラックのホンダアクティで出場しようとしていた。その菅原さんを筆頭にコドライバーの高橋さん、バイクで出場の中村さんと東尾さんらJRMスタッフと僕ら3名(打田、岡村、柏)の計7名が、ファラオラリー日本人初挑戦者となった。僕らは、JRMにエントリーの手続きやら何から何まで、すべてお任せした。現在、JRMはファラオラリーの日本事務局になっており、日本からの出場者の手配からサポートまで面倒を見ているが、いまとなれば僕らがお客さん第1号だったわけだ。
 10月4日にイタリアのベネチアで車両検査が行われるが、その前にベルギーホンダに送った出場マシンの最終チェックがあるため、9月25日に日本を出発することにした。あいにく僕の左膝は、まだ水がたまり90度以上曲がらない状態だった。
 ベルギーの首都ブルッセルに着いた僕ら3名を先発していた菅原さんたちが迎えにきてくれた。滞在ホテルは郊外にあり、木に囲まれた静かなビジネスホテルで、ベルギーホンダまでクルマで15分ほどのところにあった。僕らは翌日からベルギーホンダの整備工場を借りてマシンの整備を行った。
 いまでこそ、僕も柏も長年2輪業界にいるというだけでプロのように思われているかもしれないが、当時はド素人もいいところだった。3人の中では岡村が一番整備スキルをもっていた。僕は十代にモトクロスをかじっていたとき以来、やったことのない整備に必死だった。柏なんかパワーを出すためとかいって、サイレンサーの先端を金ノコで切ろうとしたくらい、素人だった。でも3人とも昔からラリー出場が夢だった。その夢が現実となったことが嬉しくてたまらなかった。すべてが初めてのことばかりで、なにもかもが楽しくて感動的だった。
 ベルギーに滞在中は実に楽しかった。ドイツの隣国であるベルギーでもビール祭りがあちこちで行われていた。僕らもビール祭りの会場にラリー出場マシンで乗り込んだ。とてつもなく広いビアホールと人の多さに圧倒されながらも、言葉も分からないのに隣にいたおねえさんと飲んだり踊ったり…。ホテルの近くの田舎町で、1軒しかない小さな飲み屋に行ったときは、お店をやっていた2人の女性が、突然入ってきた僕ら東洋人に興味を持ち、地元の客が来ても追い返し貸し切り状態で相手をしてくれた。僕が空手の形を披露したところ、お返しにテーブルの上で踊ってくれたり…(これ以上言えません)。
「日本では女性のアソコの毛3本を持っているとお守りになるんだ」と言ったら一人の女性がハサミで切って差し出してくれた。短く丸く縮れた毛が複数本手のひらにのっていたのを見て思わず吹き出したら飛んでいってしまった。もう1度とお願いし、お守りに(?)にありがたくいただいてきた。
 9月30日、いよいよイタリアに向けてベルギーを後にした。ベネチアまでの1,400kmをマシンの慣らしを兼ねて自走した。ドイツ、オーストリア、スイス、アルプスを越えてイタリアへ。軽トラック1台とバイク5台の珍道中がスタートした。

ベルギーのビアホールで隣のお姉さんと

ベルギーのビアホールでは隣のお姉さんと飲めや踊れやで盛り上がった。若かったなー…

#04 バイク5台と軽トラック1台、1,400キロの珍道中開くボタン
アルプスを背景に
バイク5台にアクティ1台のチーム子連れ狼。イタリアへ向かう途中、アルプスをバックに記念撮影。 寒かった。
 ベルギーに5日間ほど滞在した僕らは、10月4日にイタリアのヴェネチアで行われるラリーの車検に間に合わせるため、9月30日にベルギーを出発した。ヴェネチアまでの1,400キロをマシンの慣らしを兼ねて自走した。ドイツ、オースリア、アルプスを越えイタリアまで、軽トラック1台とバイク5台の珍道中が始まった。
 ベルギーを出発した僕らは高速道路をひたすらイタリアへ向かってマシンを走らせた。ドイツでは初めて、あの名高いアウトバーンを走った。アウトバーンはドイツとオーストリアを結ぶ高速道路で総延長は1万キロを超える。3車線の整備されたアウトバーンは、日本のような渋滞もなく、比較的クルマも少なかった。アウトバーンを走っている嬉しさで、ついつい調子づいて日本のように追い越し車線を走っていたところ、いつ接近してきたのか後続のクルマにパッシングされてしまった。「やばい! ここは制限速度なしのアウトバーンだ!」慌てて走行車線に移った僕らを一気に追い越して行ったメルセデスは、アッという間に見えなくなった。その後、BMWとポルシェがたて続けに僕らを抜いて行った。おそらく170〜180㎞/h以上は出ていたに違いない。僕らのスピードは慣らしも兼ねていたのでせいぜい100㎞/h程度、それ以上出すと軽トラックのホンダアクティがついてこれない。
 そんなアウトバーンで感心したことがあった。それはトラックの走行だ。日本では高速道路でわずか5km/hほどのスピード差でトラック同士が我がもの顔で追い越しを繰り返し、渋滞を引き起こすこともたびたびあるが、アウトバーンではいちばん右端(外側)にトラック専用の走行車線があり、トラックはその専用レーンをはみだすことなく列を組んで走っているのだ。なるほど、ドライバーにマナーがあるから速度無制限のアウトバーンが認められているんだなドイツは、と勝手にいいほうに解釈。それだけトラックのマナーある走行を見て感動したのだ。
 途中、サービスエリアに寄ったところ、年配の女性が僕らに助けを求めて駆け寄ってきた。クルマのキーを差し込んだままドアロックをしてしまい、クルマの中に赤ちゃんが乗っているというのだ。僕はラリー用に持っていたスペアのスポークを1本取り出しドアを開けてあげた。赤ちゃんが心配だったのだろう。女性にとても感謝され、逆に照れくさかった。言葉は分からなかったけど。
 宿泊のためアウトバーンを下り、とある町(残念ながら地名を覚えていない)に立ち寄った。ドイツの田舎町のホテルにバイク5台と軽トラック1台に乗った東洋人が8人も現れたことが、この町初めての出来事だったのか、ホテルからの連絡を聞きつけて地元新聞社の記者とカメラマンが取材にやってきた。ホテルの前にマシンを並べ写真を撮られたが、その後、どんな記事になったのか知る由もない。
 2日目の宿はドイツとオーストリアの国境沿いにあるフッセンという町のホテルだった。何の知識もなく着いたフッセンは城下町で、ホテルから見えた山の中にあるお城は、絵はがきやポスターにもなっている世界的に有名なノイシュバンシュタイン城だった。ディズニーランドのシンデレラ城はこのノイシュバンシュタイン城をモデルにしたものだ。町並みはメルヘンチックな雰囲気で観光客を乗せた馬車が行き来している。まるで童話の世界にでもいるよう町だった。ノイシュバンシュタイン城はホテルから見ただけで立ち寄る時間がなかったのが残念だったが、シングルだった僕はノイシュバンシュタイン城のあまりの美しさに、今度は絶対、彼女といっしょに来ようとホンキで思ったものだった。あの頃はまだ思い通りにいかない世の中の厳しさを知らなかった…(当然、未だ実現していない)。
ノイシュバンシュタイン城 途中立ち寄ったフッセンの町からノイシュバンシュタイン城を見る。城と町のあまりの美しさに、結婚したら新婚旅行はここにしようと思った。後に世の中、思い通りにいかないことを知った。10月に入ったばかりなのに、オーストリアのアルプス越えは、ハンドルを握る手がかじかんでしまうほど寒かった。アルプスのあまりの寒さに、サービスエリアのトイレに設置してあるエアドライヤーの熱風で手や体を温めた。フッと脇を見ると、なんとトイレの中にコンドームの自動販売機があった。これには当時まだ海外経験の少なかった僕はカルチャーショックを受けた。「外国は進んでいるよなー」(何が進んでいるのかわからないが)冗談で1個購入してみた。「デ、デ、デカイ!」コンちゃんのデカさにもカルチャーショックを受けてしまった。
 アルプスを越えてようやくイタリアの国境に着いた。イタリアの国境検査官にパスポートを求められ渡したところ、なかなかパスポートを返してくれない。何がなんだかわからないまま20分以上も待たされた。どうやら僕らのマシンに貼られたスポンサーのステッカーが魅力的だったようで、ステッカーやステッカーロゴの入ったウエアが欲しいために嫌がらせをしていたのだった。大人げないイタリア検査官に腹立ちながら、僕らも意地になってステッカー1枚すらあげなかった(僕らも大人げなかった…)。
 そして僕らは1,400キロを走りきり、ベルギー出発から3日後の10月2日に豪雨の中、車検会場のヴェネチアに辿り着いた。(つづく)
#05 4泊5日のフェリーの旅、仮装パーティーで盛り上がる 開くボタン
大型フェリー
イタリアからエジプトまで大型フェリーで4泊5日の長旅がはじまった。

  9月30日にベルギーを出発した僕らは、ホンダアクティ(軽トラ)とバイク5台でアウトバーンからアウトストラーダを走り、ベルギーから西ドイツを抜け、オーストリアのアルプスを越えて、10月2日の夜半に豪雨の中、ようやくイタリアのヴェネチアに到着した。
 早速ホテルでチェックインをし、エレベーターに荷物を押し込んで6人が乗り、部屋のある2階へ向かった。ところがエレベーターが動きだして数秒後、突然「ドン!」という音とともに衝撃を受けエレベーターが止まってしまった。エレベーターに乗っていた僕らは一瞬なにが起こったのか分からなかったが、ホテルの従業員がエレベーターのドアを外から開けてくれた。しかも開いたドアと外との隙間が1メートルほどの高さしかない。なんと2階に行くはずのエレベーターが地下に落ちたのだった。1メートルほどの隙間から外へ脱出し全員無事だったが、エレベーターの積載オーバーが原因とは言え、警告ブザーも鳴らないまま(装備してない?)落下したエレベーターに、さすがイタリア…とわけの分からないことをいいながらみんなで大笑いした。
 イタリアと言えばスパゲッティー。翌日、みんなで近くのレストランにスパゲッティーを食べに行った。本場のスパゲッティーはさぞかし美味しいだろうと期待していたのだが、僕の行きつけの神楽坂のお店のカルボナーラのほうがはるかに美味しかったのにはいささかガッカリした。その後、別のお店で食べたスパゲッティーはなかなかの美味だったので、なんとかスパゲッティーの本場イタリアの汚名が挽回できた。
 10月4日、ラリー車検の当日、移動用に履いていたノーマルタイヤをモトクロスタイヤに履き替え、ラリーの車検会場へ向かった。車検会場には各国から出場する競技車両が続々と集まってきた。レンジローバーやラダ・ニーバ、メルセデスといったSUVの他にセダンタイプのアウディークワトロなどAUTOは61台、カミヨン(トラック)が4台、そしてMOTOはATC(スリーホイラー)とサイドカー各1台を含め60台、アシスタンスカーも31台がエントリーしていた。きれいにセットアップされた2輪はほとんどが600cc以上で、特にXL600Rをベースにしたマシンが多く、中でもこの年(84年)のパリ・ダカで優勝したBMWファクトリーチームのガストン・ライエ(元モトクロス世界チャンピオンで2005年に58歳の若さで他界したベルギー人)の駆るR100(1000cc)が注目の的だった。大排気量マシンの中、僕らのXLX250Rはひと回りもふた回りも小さく貧弱に見えた。
 車検会場で話題を集めた車両がもう1台あった。それは菅原正義氏がドライブするホンダアクティ4WDだった。なにしろ550ccの軽トラックだから、僕ら以外は誰も参加車両とは信じなかった。(笑)

コリントス運河

ギリシャのアテネへは、19世紀に岩盤を削ってつくられた、幅23m長さ6,343mのコリントス運河を、ファリーはタグボートに牽引されて通り抜けた。

 日本からの参加車両は全車両とも問題なく車検を通過。渡されたゼッケンをマシンのゼッケンプレートに貼付けた。ゼッケンは僕が217、岡村が216、柏が214。どノーマルのマシンもゼッケンを貼付けただけでそれなりにかっこ良く見えた。  10月5日、競技車両とエントラントを乗せたフェリーは、ヴェネチアの港から地中海を渡りエジプトのアレキサンドリアをめざして出航した。途中、19世紀に切り開かれたコリントス運河を抜けギリシャのアテネに停泊。出航まで4〜5時間あったのでタクシーをひろい、アテネ観光に出かけた。アテネの街をぶらつきながら食事をした後、フェリーに戻ったが、古代の雰囲気を残す街並みや狭い路地など、ゆっくりアテネを見て回れなかったのが心残りだった。
 アレキサンドリアに着くまでの4泊5日の船旅は退屈でしようがなかった。船上では時間がたっぷりあったためコースマップのコマ図をじっくり見ることができたものの、初めは美味しいと食べていた船内食も毎日同じメニューが続き、3日目あたりからうんざり、船内放送のイタリア語もだんだん耳障りになってきた。
 フェリーの乗客の半分はラリー関係者だったので徐々に仲間意識のようなものも湧いてきた。しかし、ほとんどがフランス人とイタリア人なので互いに訳の分からない片言の英語で声を掛け合う程度だったが、それでも退屈さが言葉の分からない者同士でもコミュニケーションを高めてくれた。

仮装パーティー

船内ではラリー関係者による仮装パーティーが行われ、ガストン・ライエ(写真が見つからなかったのが残念)もギャングに扮するなど爆笑に沸いた。
 エジプトに到着する前夜にラリー関係者の間で仮装パーティーをやろうという話しがまとまった。この仮装パーティーがまたメチャクチャで、アラブの盗賊やインドの魔法使い、オカマにチンピラなど、みんなラリーのウエアしか持っていないはずなのに、どこで借りてきたのかスーツやコートをはおり、ベッドのシーツまで使った仮装姿でディスコルームに集まった。ディスコルームは大爆笑に包まれた。僕ら日本人も彼らに負けてはならないと、岡村が裸になって細くねじったシーツをマワシ代わりに巻き、大きな外国人相手に“ジャパニーズ・スモー”を披露し会場を沸かせた。  大いに盛り上がった仮装パーティーは深夜まで続いたが、最後まで残っていたのはイタリア人と僕ら日本人3人(僕と岡村と中村)だけだった。陽気で調子のいいイタリア人と最後までつき合うことができた僕らは、調子の良さではイタリア人と同レベルだったことに気付いたのだった。
 10月9日の朝、4泊5日の長く退屈な船旅もようやく終わり、エジプトの玄関、アレキサンドリア港にフェリーは到着した。いよいよラリーが始まるのかと思うと興奮で体が震えるのがわかった。(つづく)

#06 強い陽射しと乾いた空気。いよいよラリーはスタートした 開くボタン

 イタリアのヴェネチアから出航したフェリーの長く退屈な4泊5日の船旅もようやく終わり、10月9日の朝、エジプトの玄関、アレキサンドリア港に到着した。いよいよラリーが始まるのだという実感が徐々に強くなるにつれて、長旅でややだらけ気味となった気持ちを高ぶらせた。

 オイルで滑りやすい車両甲板の鉄床に注意しながらマシンをフェリーから降ろした。初めて踏み入れるエジプト。10月だというのに、いままで経験したこともない陽射しの強さと乾燥した空気、それに透明感も違う。空気の匂いも違っていた。次々に下船するラリーマシンで埠頭は埋め尽くされた。それに見物人で港はごったがえした。活気の凄さにも圧倒された。

アレキサンドリア港

4泊5日の航海を終え、10月9日、エジプトのアレキサンドリア港に到着した。港はラリーマシンで埋め尽くされた。

 埠頭に降りたラリーマシンにエジプトのナンバープレートが取り付けられた。日本のナンバープレートの倍もある鉄板にアラビア文字が書かれている。そのナンバープレートを針金で括り付けるだけだった。もちろんラリーの時は取り外さないと吹っ飛んでしまう。
 ファラオラリーは今回で3回目の開催だが、エジプトでは国をあげてのイベントだったため、街中の人たちが大勢見学に押し寄せていた。エジプト警察のパトカーに先導され、ラリーマシンは220キロ先のカイロをめざしてコンボイで走り出した。沿道にいる人たちに軽く手を挙げると手を振って応えてくれた。しばしヒーローにでもなった気分で感激した。アレキサンドリアの街は原色や派手な色彩は少なく茶褐色に包まれていた。道路はクルマが多く、トロリーバスや馬車も行き来している。
 ほんの10分程度でアレキサンドリアの街を抜けると、そこはもう地平線まで続く真っ平らな砂の海に景色が一変した。砂漠の中に延びる国道をラリーマシンは時速100km/hほどで進んだ。対象物が少ないためスピード感もなくなる。時々現れる道路標識もアラビア文字なので何がなんだか分からない。360度砂漠の中を走りながら「ここがエジプトか〜、アフリカの砂漠か〜」と、初めて見る広大な砂漠に興奮している自分を冷静にする意識もなくなっていた。
 走り始めて数時間後、少しずつ木立や人の姿が増えてきた。カイロだ。カイロの街に到着したのだ。カイロの街をかすめ、いくつかの道を曲がると、突然目の前に強大な三角形の物体が現れた。ギゼのピラミッドだ。鼻の欠けたスフィンクスも見える。2つのピラミッドの下に設けられたスタート台が逆光に照らされて目に入った。いよいよラリーのスタートの時がやってきた。

ギゼのピラミッド

入院から3カ月後、茶褐色の砂漠の上に立っている自分が信じられなかった。エジプトに上陸した初日、ギゼのピラミットの下からラリーはスタートした。
 ラリー初日の今日は、わずか23キロのスペシャルステージ(競技区間)のみだが、ラリーのシステムを理解しきれていなかった僕らはシュラフまでバイクにくくり付けてスタートの順番を待った。他のライダーはウエストバック程度しか身につけておらず、なんと僕らのダサイことか。
 スタートはゼッケン順に2輪から2台ずつ30秒間隔でスタートする。最初にスタートしたのはゼッケン201番BMWファクトリーのガストン・ライエと、同じくBMWファクトリーのゼッケン202番エディ・ハウだ。ガストン・ライエは2005年に癌で他界したが、モトクロスで3年連続世界チャンピオンになった英雄で、70年代に全日本モトクロス選手権にもスポット参戦している。身長160cmほどの小柄な体型といつもにこやかな顔からは想像がつかない職人的走法で、この年の1月に開催されたパリ・ダカール・ラリーでも優勝に輝いた。“リトル・ジャイアンツ”や“親指トム”の愛称でみんなに親しまれていた。後にライエが来日したときに、いっしょに食事したりお酒を飲んだりする仲になるとは、当時は思いもしなかった。
 いよいよスタートの順番がやってきた。僕と岡村はスタートラインに並んだ。まだ自分がアフリカの大地に立っていることが夢のようだった。ラリーへの憧れと、3ヵ月前に入院先の病院でファラオラリーの存在を知り、勢いだけで出場を決めた。手術した左膝の靭帯はまだ完治しておらず、左膝には水が溜まり90度しか曲がらない足で、砂漠の上に立っている自分が信じられなかった。どのように走ったらいいのだろう…システムもろくに理解していない戸惑いと、期待と不安で緊張はピークに達していた。
 目の前のオフィシャルの手の指5本が1本1本折られていく。「トロワ、ドゥ、アン、ゴーッ!」振り下ろされたオフシャルの手の合図で、僕と岡村は砂丘に向かってスロットルを開けた。「えーいっ、行っちゃえー」頭の中は完全に真っ白になっていた。(つづく)
#07 ラリー初日、砂漠のきつい洗礼が待っていた 開くボタン

 10月9日、第3回ロスマンズ・ファラオラリーはスタートした。
 スタートは2輪からゼッケン順に2台ずつ30秒間隔でスタートする。僕ら日本人ではゼッケンのいちばん若い#213、チーム子連れ狼の東尾が最初にスタートした。続いて同チームの#215中村と#214の柏、その後に続いて#216の岡村と#217の僕がスタートに並んだ。どんなふうに走ればいいのだろう……初めて出場するラリーレイドに困惑しながら、僕と岡村はオフシャルの合図で、砂丘に向かってバイクを走らせた。
 走り始めてすぐに250ccの非力さを感じた。土漠の砂は意外と深く250ccのパワーがいとも簡単に吸い取られてしまう。砂丘を上り切った先は地平線まで砂漠が続いていた。「なんてぇところだ、ここは…」初めて見るアフリカの砂漠はまさに驚異の世界だった。「とんでもないところに来てしまった…」見るものすべてが驚きの世界で冷静さを取り戻す余裕などなかった。
 バイクをスピードに乗せトップギアに入れても砂にパワーが取られすぐにスピードが落ちてしまう。また1速シフトダウンしてスピードに乗せる。そんなことを繰り返しながら時速90〜100km/hをキープして走行していた。

スペシャルステージ走行の打田稔

困惑と緊張で冷静さを失いながらスタートした。砂漠のきつい洗礼が待っているとも知らず、スロットルを開けた。

 初日の今日は、わずか23キロのスペシャルステージ(競技区間)のみ。いわば明日から始まるラリー本番のグリッド(スタート順)決めと肩ならし的なステージだ。それなのに冷静さを失っていた僕は、今となって思えば誰でも分かるような初歩的なミスすら判断でなくなっていた。
 スタートしてステージの半分ほど走っただろうか。前を走行するクルマのホコリで視界を失った瞬間、僕の身体は宙に舞い上がった。「嘘だろう? どうして…?」なぜ宙に舞い上がったのか理解できず心の中で自問自答した。ほんの一瞬がやけに長い時間、宙に浮いているように感じられた。そして僕は土漠に背中から叩きつけられた。背中に激痛が走ったが体よりバイクが心配だった。バイクは5メートルほど後ろに倒れていた。慌てて駆け寄りバイクを起こした。その後、背中の激痛で立っているのが辛くしばらくしゃがみ込んでしまった。  
 クラッシュの原因が分からなかった。しゃがみ込みながら走行してきた方向を見渡すと、15メートルほど後方に何もないはずの土漠に40センチ四方もある大きな石が1個だけあった。「あれだ、あの石にフロントをヒットさせたのか…」ということは、僕は20メートルもぶっ飛んだわけだ。土漠だから小石はあるものの、大きな石はこの1個だけだった。なんという運の悪さ。ホコリで前が見えなくなったらスピードを落とし、風上に走行ラインを変え、ホコリから回避するという初歩的な判断を怠った結果だった。初ラリーで初日に、しかもスタートしてわずか10数キロでいきなり砂漠のきつい洗礼を受けてしまった。

カメラを手にした打田稔

カメラマンの僕はいつでも撮影ができるようカメラを持って走った。しかしデイパックに入れたスペアのカメラボディがクラッシュで仇になるとは。

 バイクはリアフレームがねじれ、リアホイールが歪み、スポークが10本ほどポッキリと折れていた。「初日でリタイアかよ…」ラリー初出場に協力してくれた人たちやスポンサーの顔が頭の中をよぎった。「このままリタイアはしたくない」と、背中の痛みを堪え、バイクに跨がりキックを踏みおろした。エンジンはすぐに始動した。リアタイヤが左右に振れるマシンを30km/hほどでゆっくり走らせた。スポークの折れているリアに少しでも過重をかけないようタンクの上に座ったりした。そこに先を走っているはずの柏が後方からやってきた。ミスコースでもしたのだろうか。とりあえず柏に状況を説明し、みんなが心配するだろうから先に行かせた。
 いっしょにスタートした岡村は30分ほどでゴールし、ホテルでバイクの整備を始めていた。僕は40分ほど遅れてなんとかホテルにたどり着いた。柏からクラッシュしたことを聞いていた仲間たちが駆け寄ってきた。明日のスタートに間に合わせるため、僕のバイクの修理が始まった。軽トラックのアクティーで出場しているチーム子連れ狼のボス、菅原さんがイタリアのトラックチームから大きなハンマーを借りてきてくれて曲がったリアフレームをたたいて直してくれた。スポークが10本も折れ歪んだリアホイールはスペアに換え、岡村がスポークを組んでくれた。僕は背中の痛みで何もできず、みんなの助けを借りるだけだった。
 帰国後、病院に行って分かったのだが、背骨が2カ所欠けていた。そんなこととは知る由もなく、みんなの前では笑顔で「大丈夫、大丈夫!」と空元気で応えていたものの、バイクが直ったとしても明日から本格的に始まる、残り7日間4,000キロのラリーは本当に走り切ることができるのだろうか……初日から痛みと不安につきまとわれた。(つづく)

#08 初日の最後尾から一転、2日目はクラス2位!? 開くボタン

 憧れと勢いだけで初出場した国際ラリーレイド『第3回ロスマンズ・ファラオラリー』は、ラリー初日の大クラッシュでバイクも体もボロボロになるアクシデントから始まった。

 クルマのホコリで視界を失った瞬間、何も無いはずの砂漠の真ん中に1個だけあった40センチ四方もある石にフロントをヒットさせ、20メートルもぶっ飛んでしまったのだ。バイクはリアフレームが曲がり、リアホイールが歪み、リアスポークが10本も折れてしまった。体は背中から地面に叩き付けられたため、背中の激痛でしばらくよつんばいになったまま立ち上がることができなかった。それでも「このままリタイアはしたくない」の一心で、なんとかゴールに辿り着いた。

 宿泊地のホテルでは、仲間の力を借りてボロボロになったバイクの修理が始まった。大きなハンマーで曲がったリアフレームをたたいて直し、10本も折れたスポークと歪んだリアホイールはスペアに換えた。スイングアームも若干ねじれていたが、スイングアームまではスペアを持ってきていない。僕は背中の痛みで動き回ることもできず、ただただみんなの助けを借りるだけだった。

 修理の甲斐あって夜の9時には僕のバイクは走れるまでに回復した。背中のダメージは、取材も兼ねていたためデイパックに入れていたカメラに背骨がヒットしたのが原因だった。背中の痛みや90度以上曲がらない左足を抱え、明日から本格的に始まるラリーの残り7日間を本当に走り切ることができるか、やや不安だったが、クラッシュしたお陰で「ここで諦めてたまるか。こうなったらとことんやってやろうじゃねーか」と逆に腹がすわり、プレッシャーから解放され、吹っ切れた気分になれた。

 修理を終え、9時過ぎに夕食にありつき、部屋のベッドに横たわったが、背中の痛みで仰向けに寝ることもできず、しかも時折背中を走る激痛で熟睡もできないまま、翌朝を迎えた。

 10月10日、ラリー2日目は今大会中もっとも長い1,017キロのステージが待っていた。ほとんど熟睡できないまま、早朝4時に起き、まだ暗闇の中をSS(スペシャルステージ=競技区間)のスタート地点までの59キロをひた走った。

スペシャルステージ走行の打田稔 クラス2位

初日の大クラッシュでボロボロになったバイクも回復し、背中の痛みも忘れるほど、大砂漠のすばらしさに感動しながら走行を続けた。

 SSは、昨日のリザルト順でスタートする。初日のクラッシュで大きく出遅れた僕は、ほとんど最後尾からのスタートとなった。106キロのSSは、序盤は比較的走りやすい路面だったが次第に砂が柔らかくなりうねりが激しくなってきた。それに日が出てきたとたん気温もどんどん上昇し陽炎がたちはじめた。そのとき、遠くの砂漠でキラキラ輝くものが目に入ってきた。砂漠のくぼみで輝いていたのは大きな湖だった。カイロからもっとも近くにある大きなオアシス、クリーク湖だ。日本で見る湖とは違い水辺には草木がなく、砂漠の茶褐色と真っ青な空の間に銀色に輝く湖の、なんとも不思議なコントラストの美しさに、しばしラリーに出場していることを忘れてしまうほど、感動した。

 日が高くなるにつれて日差しがジャケットを突き抜け、肩がジリジリと暑くなってくる。この年、エジプトの砂漠は日中40℃を越える灼熱の年だった。

 スイングアームのねじれがやや心配だったが、仲間の修理のお陰でさほど気になることもなく順調に走行できた。いつもバイクに乗って思うのだが、体に痛みがあってもなぜかバイクに乗ると痛みが薄らいだり、感じなくなったりする。ライダーの体質なのだろうか。あれほど痛かった背中の痛みも忘れて走れた。

日陰でスタート時間を待つライダー

日中の気温40℃を越える暑さに、ライダーはクルマの日陰でスタートまでの時間を過ごす。

 SSの途中で岡村に追いつき、しばらくいっしょに走った。砂漠のあまりの景色の美しさに、SSだというのにバイクを止め写真を撮ったりもした。そこから数キロ走った地点に東尾選手が止まっていた。そこはとても砂が軟らかく波打っているところだった。どうも転倒したようだ。東尾選手は立ってはいるが、なんとなくボーッとしている感じだった。「大丈夫?」と声をかけたら「ダイジョウブ、ダイジョウブ…」と頼りない返事が返ってきた。バイクもヘッドライトが割れていたが、それ以外のダメージはなかったので「もう少しでフィニッシュだから」と声をかけて先に行くことにした。ところが、いっしょに走っているはずの岡村がいつの間にかいなくなっていた。「どうしたんだろう?」と思いながらSSをゴールし、その後の444キロのリエゾン(移動区間)とこの日2回目のSS186キロも無事に走り切り、エルカルガのキャンプ地にゴールした。僕の後を追って岡村もゴールした。岡村は途中、転倒しそうになり、なかなかエンジンがかからず遅れをとったらしい。いずれにしても互いに2日目の1,017キロを無事に走り切った。

 キャンプ地に貼り出されたこの日のリザルトを見て僕も岡村も驚いた。250ccクラスで僕がクラス2位で岡村がクラス1位、しかも岡村はファクトリーやセミファクトリーにまじっての総合9位でフィニッシュしたのだった。(つづく)

#09 僕らを襲った悪夢の連打!? 開くボタン

 今大会もっとも長い1,017キロのステージだったラリー2日目は、なんと250ccクラスで僕がクラス2位で岡村がクラス1位、しかも岡村はファクトリーやセミファクトリーに混じっての総合9位だった。僕はこの日、ほとんど最後尾からのスタートだったため、今日のリザルトに目を疑ったが、上位を走るライダーの多くがミスコースしたらしく、運良くミスコースをしなかった僕と岡村が先行したのだった。
 ラリー3日目の10月11日、エルカルガからSS(スペシャルステージ=競技区間)の入り口までは333キロの長いリエゾン(移動区間)が続く。取材も兼ねていた僕らは、SSでの撮影はなかなか難しいため、時間的に余裕のあるリエゾンで撮影しようと、道を少し外れバイクを止めた。センターラインの白線もない黒いアスファルトの道の左右は茶褐色の砂漠で覆われている。
 最初に中村選手の走りを撮影した。次に柏(2輪ジャーナリスト)が走った。柏は近くの砂丘を駆け上がった。「おっ、カッコイイ、このカット使えるぜ」「よしっ、みんなであの砂山をのぼっているところを撮影しようか」などと話をしていたが、砂丘の向こうに行った柏がなかなか戻ってこない。そこへ、僕らの前を通過した1台のラリーカーがバックして戻ってきた。ドライバーが、砂丘の裏でライダーがうずくまっていると知らせてくれたのだ。僕らは一瞬顔を見合わせ、砂丘の裏側にバイクを走らせた。
 すると、砂丘の裏側が垂直にえぐられており、その下に柏はいた。転倒した様子はなかったが、相当痛そうに顔をゆがめている。どうも砂丘がえぐられているのが分からないまま3〜4メートル下にダイブし、サスがショックを吸収しきれず、もろに腰で衝撃を受けてしまったようだ。
 砂丘は、砂が風に吹きつけられてできた山だから、砂丘のなだらかなほう、つまり風上側は、砂が風でたたきつけられているため、固く締まっており比較的走りやすいが、反対側は風が舞うためえぐられていることが多く、砂もフカフカで柔らかい。これも何度かラリーを経験したから言えることであって、ラリー初出場のその時は、そういった砂漠の常識のひとつも僕らは持ち合わせていなかった。
 柏のバイクにダメージはなかったため、みんなでSSのスタート地点をめざして走り始めた。SSのスタート地点に着いても、腰の痛みで顔をゆがめながらバイクの脇にしゃがみ込んでいる柏が心配だった。

リエゾンの後、砂漠の中に用意されたSSのスタート地点

リエゾンの後、砂漠の中に用意されたSSのスタート地点に次々にラリーマシンが集まってくる。最初のSSは前日のリザルト順にスタートする。

 SSのスタートは、総合9位の岡村が上位の外国人ライダーの600ccに混じって9番目にスタートした。続いて中村選手、僕と続いた。
 この195キロのSSを走り切れば、今日のステージは終了する。変化の少ない、比較的に飛ばせるルートで、迷うようなところも少なかった。しかし、40度にも達する気温が体中から水分を奪っていく。まさに灼熱地獄との闘いだ。「こんなところでトラブったら、たまったもんじゃない!」僕は、無理せずノントラブルで走り切ることに集中した。
 ゴールに飛び込むとオフィシャルから水をもらい、一気に1リットルも飲んでしまった。今夜のキャンプ地は、アブシンベル宮殿の近くだが、見学する時間と余裕などない。
 ホンダアクティ(軽トラ)で出場の菅原さんらの他に4輪で出場の日本人、根本さんがゴールし、「柏さんのバイクのエンジンがイカレたらしく、座り込んでいたよ」と知らせてくれた。リタイア車両回収のトラックで、バイクとともに柏が到着したのは日が落ちてからだった。腰の強打にエンジントラブル……ダブルパンチを受けた柏のリタイアが決定した。
 10月12日、アブシンベルからルクソールまで、318キロのSSが用意されていたが、主催者のミスでガソリンが用意できず、SSは106キロに短縮された。疲労が蓄積している体にはラッキーだった。

SSの走行中、あまりの暑さにバイクを停め水分補給

SSの走行中、あまりの暑さにバイクを停め、水分を補給した。その後のラリー経験で、ゴールまで停まらずに走りきるほうが、ペースが保てることを知る。

 SSを走行後、残り315キロはアスファルト走行。アスワン・ハイ・ダムを通り、ナイル川沿いに北上。あまりの暑さに、このままナイル川に飛び込みたい気持ちだった。
 今夜から3泊は、ルクソールのプール付きリゾート高級ホテル泊まりとなる。キャンプと違ってシャワーを浴びられ、体の疲れもとれ…ほんの少しだけ旅行気分も味わえた。しかし、そんな気分とは裏腹に、今度は僕と岡村にとんでもない事件が襲いかかろうとしていた。
 ラリー後半となった10月13日は、走行距離585キロのうち、SSは236キロと146キロの2本が用意されたループのルートで、再びルクソールのホテルに戻ってくる。SSのスタートは、ルクソールのホテル近くからフェリーに乗り、ナイル川を渡ったところにある。
 ホテルのフロントに頼んでいたモーニングコールが鳴らず、あまりにもベッドの寝心地がよかったせいか、同室だった中村選手と僕は見事に寝坊。慌てふためいてフェリー乗り場にカッ飛んで行った。なんとかSSのスタートに間に合ったものの、この後、予期せぬ大事件を起こし、岡村と僕のクラス1位、2位のリザルトはこの日が最後となり、再びルクソールのホテルに戻ることはなかった。(つづく)

#10 砂漠のど真ん中にとり残された2人 開くボタン

 ラリー後半となった5日目の10月13日は、走行距離585キロのうち、SS(スペシャルステージ=競技区間)は236キロと146キロの2本が用意されたループで、再びルクソールのホテルに戻ってくるステージが用意された。SSのスタートは、ルクソールのホテルの近くから渡し船のような小さなフェリーに乗り、ナイル川を渡ったところにあった。
 キャンプから久々にホテル泊まりとなった昨夜、早朝の起床が不安だったためホテルのフロントにモーニングコールを頼んでからベッドに横になった。久々のベッドはあまりにも寝心地がよく、すぐさま爆睡した。
 翌朝、ふと目がさめ時計を見たら、なんと起床時間がとっくに過ぎているではないか。ホテルに頼んだモーニングコールも鳴らず、同室だった中村選手と僕は見事に寝坊してしまった。慌てふためいてライディングウエアを着込み、バイクにまたがりフェリー乗り場にカッ飛んで行った。
 小さなフェリーは1度でクルマ6台ほどしか運べないため、数回に分けて競技車両を運んでいたのでなんとかフェリーに乗り込むことができ、SSをスタートすることができた。
 初めてクロスカントリーレイドに出場したこの時は、いまのようにGPSもなく、マップケースもなかった(ファクトリーはスペシャルのマップケースを取り付けていた)。ナビゲーションシステムといえば、コンパスと、ハンドルバーに取り付けたA5サイズのアルミ板だけで、そのアルミ板にラリー中、主催者から毎日受け取るルートマップ(コマ図と距離が記入されたマップ)を蝶ねじで挟み込み、走行しながら1枚1枚めくり取っていくという、いたって原始的な方法だった。たまに2枚いっしょにめくり取ってしまい、ルートや距離があわなくなったこともしばしばあった。
 トップライダーと違い、後方を走行する僕らは、ルートブックを使用するときは危険な箇所や分岐の確認と道に迷ったとき程度で、ほとんど上位を走行する競技車両の轍を見つけながら、その轍をトレースするだけだった。轍が多いときは一般車両か競技車両かをトレッドの跡で判断した。いま思えば、よくそれで走れたと感心する。
 この日も40度を超える暑さで、日差しがジャケットを突き抜け背中をジリジリと突き刺す。1本目のSSは路面変化が激しく、スピードの乗る砂地からいきない岩場になったりする。このSSで3人の骨折者が出たが、無理もない。日差しが強いため、路面変化が読み取れないのだ。

リエゾンの後、砂漠の中に用意されたSSのスタート地点

砂漠の風景の凄さにコースから少し外れてカメラを構えた。後続車が何かトラブルでもあったのかとこちらに向かってやってきた。お陰でいいカットが撮れた。

 後にも前にも僕一人となり、ひたすら轍を頼りに走り続けた。圧倒される広大な砂漠では、あまりのすばらしさに少しルートを外れてバイクを停め、カメラで撮影もした。そんな僕を見つけた他のライダーが僕のほうへ近寄ってくる。僕は「ノープロブレム!」と手を挙げると、近寄ってきたライダーはうなずいて走り去って行く。競技者はみんな仲間意識が強くなり、トラブルが起きれば助け合おうとする。クロスカントリーレイドならではだ。
 1本目のSSをゴールし、2本目のSSに向かう途中、岡村に追いついた。2本目のSSはいっしょに走ることにした。ところがこの後、予期せぬ大事件が僕と岡村を待っていた。
 SSをスタートし、しばらく走ったところで腹痛を模様した僕はバイクを停め、用を足した。岡村も付き合って待っていてくれた。岡村も睡眠不足と疲労がたまっているようで、少しの時間でも地べたに横になりすぐに寝てしまう。用を済ませた僕は寝ている岡村を起こし、再び走り出した。轍のある路面をしばらく走ったところでパウダーのような細かな砂に覆われた路面に突っ込んだ。タイヤが半分以上も埋まる深さで、いきなりバイクは失速し、前転しそうになりながらも瞬時にシフトダウンしスロットルを開け、なんとか深い砂から脱出しバイクを停めた。「ふーっ、危なかった。岡村は大丈夫か?」後ろを振り返ったら岡村がいない。舞い上がった砂埃がややおさまりかけた砂の中から岡村が起き上がってきた。僕の巻き上げた砂埃で前が見えないまま、岡村も深い砂の中に突っ込み転倒したのだった。岡村は体中砂まみれ(というよりパウダーまみれで真っ白)になり、バイクは砂の中へ埋もれハンドルのグリップしか出ていなかった。砂まみれで真っ白になった岡村を見てついつい笑ってしまった。

SSの走行中、あまりの暑さにバイクを停め水分補給

砂地から岩場になったところで転倒者が続出し3名が骨折した。負傷したライダーはアルミシートで直射日光から身を守り、オフシャルの救出を待つ。

 日も傾き影もだいぶ伸びていたが、ゴールまで残り50キロを切っていたので焦ることもなく再び走り始めた。ところが複数本あった轍がいつの間にか1本になり、岩場も現れ、ついには轍を見失ってしまった。ミスコースであることに気づいた頃には、周りは薄暗くなっていた。方角を確認するためコンパスに目をやったところ、なんとコンパスの針が壊れているではないか。岡村のコンパスで確認しようと岡村にコンパスを求めたら、再びルクソールのホテルに戻るということで、コンパスからルートマップまで、すべての装備をホテルに置いてきたというのだ。とにかく轍のあるところまで戻ろうと、来たと思われる方向にバイクを走らせたが、一向に轍が見つからないまま、僕らを暗闇が包み込んだ。
「打田さん、ヤバいですね」「ヤバいよ、岡村」…僕と岡村は真っ暗な砂漠のど真ん中にとり残されてしまった。(つづく)

#11 ミスコースで暗闇の砂漠を彷徨い、幻覚を見る開くボタン

 5日目のルートは、再びルクソールのホテルに戻るループコースだった。今思えばそれが注意力を欠いたのかもかもしれない。
 最後のSSは岡村といっしょに走った。ゴールまで残り50キロを切ったところで、いつの間にか地面にあったはずの轍を見失い、ミスコースに気付いたときには周りは薄暗くなり始めていた。方角を確認しようとコンパスを見たところ、コンパスが壊れており、岡村はコンパスからルートマップまで、すべての装備をホテルに置いてきていた。岡村もまさかこんなことになるとは思わなかったとはいえ、ルートマップまでも置いてきたのには驚いた。レギュレーションで定められた必須装備の携帯を守らないと、トラブルが発生したときに大変なことになる。今となっては、この経験がその後のラリーにいい教訓となった。

暗闇の砂漠では森の中を走っているような幻覚が現れた。アルミシートにくるまってビバークした。

暗闇の砂漠では森の中を走っているような幻覚が現れた。アルミシートにくるまってビバークした。
 とにかく轍のあるところまで戻ろうと、来たと思われる方向にバイクを走らせたが、一向に轍が見つからないまま、僕らを暗闇が包み込んだ。
 なんとかオンコースに戻ろうと暗闇の中を2台のヘッドライトで轍を探したが、まったく見つけることができない。どこにいるのかさえまったく分からない状態になってしまった。
 何時間、暗闇の砂漠を彷徨っただろうか、疲労もピークに達し、何もないはずの砂漠を走っているのに、左右を樹木がざわざわと流れるのが見えた。森の中でも走っているように思えた。幻覚だ。幻覚が現れ始めたのだ。このまま走り続けてもしようがない。僕はバイクを停めた。「岡村、どうする。まだ探すか。それともビバークするか」。岡村の返事はすぐに返ってきた。「寝ましょう」。即決で野宿することが決まった。地面がやや斜面になっていたのでバイクの向きを変えて止めた。

SSのスタート前でも、少しの時間があると地べたで眠りこける岡村。疲れ切っていた。

SSのスタート前でも、少しの時間があると地べたで眠りこける岡村。疲れ切っていた。

 日中は気温40℃にもなる砂漠だが、夜ともなると10℃ほどにまで冷え込む。僕はエマージェンシーシート(レギュレーションで携帯が義務づけられている緊急用アルミシート)を取り出し体に巻いて、斜面の高いほうに頭を置き地面に横になった。岡村は何ひとつ装備品を持っていなかったのでジャケットのまま地面に横たわった。2人とも疲れていたため、すぐに眠りに落ちた。しかし、夜中にあまりの寒さで何度か目を覚ましながら、薄明るくなりかけた頃には起き上がった。岡村も寒さで1時間ごとに目を覚ましたらしく、「寒い…」と震えながら起き上がった。

 夜明けの薄暗い中、回りを見渡して驚いた。斜面などどこにもなく、僕らは平らな砂漠の上で寝ていたのだ。斜面にあわせてバイクを動かして止めたことや、地面の高いほうに頭を置いて寝たこともすべて幻覚だったのだろうか。不思議な気持ちだった。

これが当時配布させたルートマップ。GPSがなかった当時、砂漠で頼りになるのはこのルートマップだけ。だが僕らは轍を頼りに走った。

これが当時配布させたルートマップ。GPSがなかった当時、砂漠で頼りになるのはこのルートマップだけ。だが僕らは轍を頼りに走った。

 日が昇ると同時に、昨日ゴールするはずだったホテルのあるルクソール方向に向かってバイクを走らせた。とにかくホテルに戻れば誰かラリー関係者がいるだろうと思ったからだ。ところが僕らが行き着いたところは断崖絶壁の上だった。高さ300メートルはあろうか、絶壁の下には道らしきものが1本伸びているのが見えた。あの道に下りられれば戻れるかも…と思ったが、絶壁からはバイクで下りることなど不可能だった。絶壁に沿って走ればそのうち絶壁がなくなるだろうと走り始めたが、走っても走っても絶壁はなくならない。広大な砂漠では距離感がまったく違っていた。まさに崖っぷちに立たされたとは、このことを言うのだなと思った。
 太陽も昇り、暑さが容赦なく僕らに襲いかかる。僕も岡村も持っている水は0.5リットルほどしか残っていなかった。バイクのガソリンも3分の1ほどしか残っていない。このままただ走ってもガソリンを消費するだけだ。少し日差しが和らぐまで休むことにした。もしや救助のヘリが来るかも知れない。救出のヘリに発見されやすいように丘の上にバイクを2台並べて止め、エマージェンシーシートを張り、その日影の中に2人で横たわった。

 いまになって考えれば、一晩キャンプ地にゴールできなくてもそれだけで救出に来てくれるはずがないのだが、ラリー初出場の僕らはそんなことすら理解していなかった。因にラリーレイドでは、救出されるまでの3〜4日間は自力で生き延びなければならない。レギュレーションで携帯を義務づけている装備、そして食料や飲料水の量などはそのために定められている。 
 残り少ない水も一口、口に含んだらゆっくり喉に流し込んで、少しの水で喉の乾きを癒すようにした。食料も僕が持っていたナグバーを分けあって食べた。わずかな風がエマージェンシーシートをブルブルと揺らす。その音がヘリの音に聞こえ、もしや救出にきてくれたのか、と思ったりもした。2人の会話もだんだん少なくなっていった。ウトウトし夢を見た。夢に出てきたのは、冷たいそうめんや冷えたスイカを食べているシーンだった。日影から出ていたブーツの暑さで目が覚め、「冷やしそうめんが食いてー」と言ったら、岡村もそうめんを食べている夢を見ていたのだった。(つづく)

#12 天使に見えたエジプト人たち開くボタン

 太陽も昇り、暑さが容赦なく襲いかかってくるなか、ガソリンも水も余裕がない。このまま走ってもガソリンを消費させるだけだ。体力も消耗する。日が少し和らぐまで休むことにした。2台のバイクにエマージェンシーシート(アルミシート)をくくり付け、その日陰に横になった。時間とともに2人の会話もだんだん少なくなっていった。いつの間にかウトウトし夢を見た。夢に出てきたのは冷たいそうめんや冷えたスイカを食べているシーンだった。岡村もそうめんを食べている夢を見ていた。
 午後3時頃、「これ以上前に進むのは無理だ。来た道を探して戻ろう」と、昨日走って来た道を探すことにした。僕のコンパスは壊れているし、岡村はコンパスを、すべての装備といっしょに昨夜宿泊するはずだったホテルに置いてきて持っていない。方角は太陽を見ながら勘で判断するしかなかった。
 しばらく走ったところで突然、僕のバイクがノッキングをおこした。慌てて燃料コックを回したところノッキングはおさまった。「ヤバい! リザーブだ」。僕のバイクの燃料タンクがリザーブになったことを岡村に知らせた。「ガス欠になったら終わりだ!」。僕と岡村はスロットルを少し戻し燃費走行に切り替えた。
 それからどの位走っただろうか、地面にバイクらしき轍を見つけた。「これは昨日走ってきた僕らの轍だ。この轍に沿って行けば戻れるかも」。急に目の前が明るくなった僕と岡村は少し元気を取り戻し、轍をトレースしながら進んだ。今度はクルマの轍もある道が現れた。「岡村! これ、昨日のルートじゃないか!」。「そ、そうですよ、打田さん!」。僕と岡村は「やったー! これで帰れる!」と一気に元気を取り戻し、喉の渇きや空腹など忘れて走り続けた。そのうち昨日のSS(スペシャルステージ=競技区間)にあった解体されていた高圧線の鉄塔が見えてきた。「間違いない。昨日走ったルートだ。これを戻れば帰れる」。2人とも帰れる喜びで燃費のことも忘れ、スロットルを握る手に力が入った。

暗闇の砂漠では森の中を走っているような幻覚が現れた。アルミシートにくるまってビバークした。

ミスコースで砂漠を彷徨ったあげく、2日目に出会ったエジプト人たちは天使のように思えた。突然の訪問者を彼らは快く歓迎してくれた。

 そこへ人影が目に飛び込んできた。「人だ、人がいる…」。それも複数のエジプト人が僕らの前に現れた。彼らは、高圧線の鉄塔を解体している労働者たちだった。突然バイクで現れた僕らにエジプト人らは驚いて集まってきた。しかも東洋人が2人だから余計だ。彼らは砂漠にテントを張って泊まり込みで作業をしているのだった。

 ジェスチャーを交えて「ウォーター、ウォーター」と彼らに水を求めたら快く水のある場所に連れて行ってくれた。そこには水がドラム缶いっぱいに入っており、それが彼らの生活用水だった。底が見えないほど淀んでいたが、この際、水をたらふく飲めることだけでも僕らにとっては幸せだった。
 彼らは始めて見る(と思う)東洋人とバイクに興味を持ち、バイクに跨がったりしてはしゃいでいた。そんな彼らが僕らにとっては救いの女神…いや、男だけだったので、天使のように思えた。
 日も傾き始め赤味を帯びていた。ガソリンもリザーブでどこまで走れるかわからない。また夜間走行でコースを見失っては元も子もない。今夜は彼らのテントに泊めてもらうことにした。

SSのスタート前でも、少しの時間があると地べたで眠りこける岡村。疲れ切っていた。

今夜は彼らのテントに止めてもらうことにした。彼らは僕らに食事とベッドまで提供してくれた。まさに彼らは命の恩人となった。

 彼らに案内され、テントの中に入った。円筒型のテントの中は結構広く、真ん中にある柱を中心に、囲むようにベッドが置かれ、テントの中央で炊事もおこなっていた。彼らは、僕らの分まで食事を用意してくれた。昨日から何も食べていない僕らは差し出された乾パンをありがたく口に入れたが、あまりの固さで噛むことができなかった。それを見ていたエジプト人は、笑いながら乾パンに水をかけようとしたので、さすがにそれはお断りし、小さく崩しながら口に入れた。湯を沸かし入れてくれたお茶は、紅茶のようなお茶にたっぷり砂糖を入れ、砂糖が解けずにカップの底に残るほどの甘さだったが、疲れているせいかあまり気にならずにおいしく飲めた。彼らにとって来客者に甘いもの差し出すことは歓迎の意を示す行為なのだ。それだけでなく、自分たちが寝ているベッドまで僕らに使っていいという。そこまでしてもらうのも悪いと思ったが、彼らの優しさに甘えてベッドに横になった。
 水が飲めて、食い物にありつけて、屋根の下で、ベッドで毛布にくるまって寝れる。もうこれ以上なにも要らなかった。物質的に満たされなくても、人間が生活でき、生きていける最低限の条件さえあれば、それだけで十分に幸せが感じられた。今まで考えたこともなかったが、日本ではなんという無駄な贅沢をしているのかと自問自答している自分がいた。近代文明の中で過ごすより大自然の中で過ごしたほうが、生きている実感がわくし、生きていることのすばらしさを感じることを、このエジプトの大砂漠で知らされたようだった。(つづく)

#13 大砂漠から3日振りに生還開くボタン

 ミスコースで砂漠を彷徨ったのちに、砂漠で作業していたエジプト人たちと遭遇し、彼らのテントに泊めてもらうことになった。水と食事もいただき、ベッドまで空けてもらった。水と食料があり、屋根の下で寝むれる…そんな当たり前のことが、これほど幸せに感じるとは…エジプトに来て、生きていることのすばらしさを実感することができた。
 僕らをテントの招いてくれた若いエジプト人たちは、ヘルメットが珍しいのか、順番にかぶって楽しんでした。

エジプト人のテントに一晩泊めてもらい、食事やベッドまで提供してもらった。ヘルメットが珍しそうでかぶっては喜んでいた。

エジプト人のテントに一晩泊めてもらい、食事やベッドまで提供してもらった。ヘルメットが珍しそうでかぶっては喜んでいた。

 翌朝、僕らを優しく歓迎してくれた命の恩人たちに、お礼にライターをあげた。こんなときのために100円ライダーやボールペンを日本から持参してきたのだ。たかが100円ライターとボールペンかも知れないが、彼らにはそう容易く手に入る物ではないので(いまはそんなことはないだろうが)みんな喜んでくれた。この100円ライターとボールペンはいろんな場面で役にたった。
 命の恩人に別れを告げた僕らは、もっとも近い町、エル・カルガに向かった。砂漠の道を1時間ほど走っただろうか、エル・カルガに着き、電話でラリー主催者と連絡を取ろうと、電話のある場所を探した。町のエジプト人に聞きながら、唯一電話があるという、電話局と思われる建物にバイクを止めた。オフィスには若い女性が一人いるだけだった。アラビア語の分からない僕らは、少しの英語とジェスチャーで、紙に電話番号を書き、そこへ電話して欲しいと女性に頼んだ。ルクソールのホテルにも連絡を取ってもらった。しかし、電話は一向につながらず、唯一の電話も僕らの期待に応えてくれなかった。
 砂漠から町に戻った僕らは、砂漠を彷徨ったときのような不安はなくなったものの、僕らが無事であることを早くラリー主催者に伝えなければならないといささか焦っていた。しかし、唯一の電話もだめとなると連絡をとる術はもうなにもない。僕と岡村は、ラリーの最終ゴールはカイロだから、とにかくカイロに向かうことにし、ひたすらアスファルトロードを飛ばした。

町で見つけた電話局(?)には若い女性が1人、言葉が分からないから電話をしてもらうのに必至。結局、電話はつながらなかった。

町で見つけた電話局(?)には若い女性が1人、言葉が分からないから電話をしてもらうのに必至。結局、電話はつながらなかった。

 300キロほど走っただろうか、ナイル川沿いに走る国道に交わるところでドアにゼッケンが貼られているクルマが僕らの前を通過していった。
「岡村、あのクルマは競技中のラリーカーじゃないか」。ラッキーにも今日のキャンプ地に向かってリエゾン(移動区間)中のラリーカーにバッタリ遭遇したのだ。「よしっ、あのラリーカーについていけばみんなのいるキャンプ地に帰れる」。僕と岡村はラリーカーを追いかけた。
 そして、日も落ちかけた夕方、僕と岡村はみんなのいるキャンプ地にたどり着くことができた。3日ぶりにキャンプ地に姿を現した僕と岡村を見つけた外国人エントラントが「(行方不明の)日本人が帰ってきたぞー」と叫んだ。オフィシャルやすでにゴールしたエントラントたち、キャンプ地にいたラリー関係者がぞくぞく現れ、僕らはみんなに囲まれてしまった。
 日本からいっしょに出場していた菅原さん(現在もカミオンでパリ・ダカ最多連続出場記録更新中)たちも駆け寄ってきた。菅原さんはBMWファクトリーのガストン・ライエ(2005年に58歳の若さで他界した元モトクロス世界チャンピオン)といっしょに、僕らを心配して捜索するよう主催者に掛け合ってくれていた。主催者から捜索依頼を受けたエジプト軍が捜索にのり出す矢先の生還だった。僕らの行方不明事件は地元のラジオでも流れていたという。
 何とも恥ずかしいやら情けないやらで、関係者に申しわけない気持ちでいっぱいだったが、主催者の寛大な計らいでラリー最終日の明日のステージを走れることになった。(つづく)

#14 ゴールの瞬間「もう2度と走りたくない!」開くボタン

 3日ぶりに生還したキャンプ地で、3日間まともな食事をしていなかった僕と岡村は、久々に美味しい食事をいただいた。この日の夜の食事は、ラリー最後のキャンプということもあり、子豚の丸焼きの豪華料理が用意されていた。生まれて初めて食べる子豚の丸焼きなどたらふくいただき、明日の最後のステージを走り切る体力を取り戻した。

行方不明から3日振りに生還した僕と岡村は、主催者の寛大な計らいで最終日のステージを走行できることになった。2輪最後尾からスタートの合図を待った。

行方不明から3日振りに生還した僕と岡村は、主催者の寛大な計らいで最終日のステージを走行できることになった。2輪最後尾からスタートの合図を待った。

 10月16日、ラリー最終日の朝を迎えた。行方不明になったわりには比較的元気な僕と岡村は、2輪の最後尾からSS(スペシャルステージ=競技区間)をスタートした。最終ステージはキャンプ地のマガガからのSS1が214km、リエゾン44kmを挟んで、SS2はラリー初日に大クラッシュをやらかしてしまったステージの逆走で23kmの、いわゆるビクトリーランだ。
 僕と岡村は、並走しながら2つのSSを無事走り切り、ギザのピラミットの脇に用意されたフィニッシュゲートをくぐり抜けた。行方不明で3日間、戦列から離れていたとはいえ、なんとか時間外完走することができた。ゴール手前の砂丘を越えたとき目前に現れたピラミッドを見た瞬間、生きて帰れたことに感動し目頭が熱くなった。と同時に「もうこれで走らなくてすむ」という安堵感でいっぱいだった。それにゴール直後には「もう2度と走りたくない!」と思ったのも事実だった。

最終ステージを走り切り、ギザのピラミット前のフィニッシュゲートをくぐった僕(左)と岡村。時間外完走となったものの、ゴール直後、「もう2度と走りたくない!」と本気でそう思った。

最終ステージを走り切り、ギザのピラミット前のフィニッシュゲートをくぐった僕(左)と岡村。時間外完走となったものの、ゴール直後、「もう2度と走りたくない!」と本気でそう思った。

 翌日の表彰式では、2輪総合優勝に輝いたBMWのガストン・ライエとともに、いっしょに日本から出場した中村選手が250ccクラス優勝、同じく軽トラのホンダアクティで完走した菅原さんが特別賞を、三菱シャリオで出場した根本さんが無改造クラス優勝の表彰を受けた。僕と岡村は、表彰式会場で行方不明事件のテレビ取材を受けた。トホホ…。
 翌日、8日間4000kmを走破するファラオラリーもすべて終了し、僕らは帰途の準備をしていた。そこへ優勝したガストン・ライエがやってきた。菅原さんのアクティに自分が乗ったマシンを積んで、帰りのフェリーが待つ港街アレキサンドリアまで運んでくれないかというのだ。菅原さんは快く引き受け、アクティの荷台にBMWファクトリーマシン980Sを積載した。ビックタンクとボクサーツインエンジンでかなりの重量だろうと思いきや、フロントタイヤを二人で荷台に載せた後、なんと一人でリアを押上られる軽さに驚かされた。さすがファクトリーマシン。それまではお金持ちのおじさんやマニア好みのBMWと思っていたが、これを機にBMWに対する考えが大きく変わった。
 ラリーレイド初出場の『第3回ロスマンズファラオラリー1984』も長かったようでアッという間に終わった。帰国のフライトの中で、「もう2度と走りたくない!」そう思ったはずなのに、自分のあまりにも不甲斐なさにいらだち始めていた。帰国後も「オレはこんなに不甲斐ない男だったのか、こんなに弱い人間だったのか」「これで終わっていいのか、本当に満足したのか」心の中で自問自答しながら格闘する毎日が続いた。他人の前ではかっこ良く振る舞って見せても自分に嘘はつけない……帰国して日が経つに連れて、その苦しみというか悔しさが強くなる一方だった。できるなら、もう1度チャレンジしてみたい。そして本当に自分はダメな男なのか、もう1度試したい…。「もう2度と走たくない!」そう思った気持ちがリベンジへと変っていった。(つづく)

#15 リベンジのチャンスをくれた菅原さんに感謝!(完)開くボタン

 1984年10月に開催された『第3回ロスマンズファラオラリー』は、エジプト国内の砂漠地帯を舞台に10日間で4000キロを走行するラリーだった。

ファラオラリー出場をどうやって聞きつけたのかわからないが、僕の出身地の地元新聞がこんなに大きなスペースでファラオラリー出場を取り上げてくれた。1984年11月20日付の山形新聞より

ファラオラリー出場をどうやって聞きつけたのかわからないが、僕の出身地の地元新聞がこんなに大きなスペースでファラオラリー出場を取り上げてくれた。1984年11月20日付の山形新聞より

 パリ・ダカに憧れていたときに、怪我で入院中の病院に舞い込んできたファラオラリー情報に、ろくに知識もないまま、勢いで出場を決めた初めての国際ラリーだった。しかし、初日に大クラッシュしてしまうし、3日間の不行方不明事件を起こしてしまうなど、自分の未熟さや甘さ、弱さなど、日本での日常では感じることもない自分の本性というか、衣をはがされた本当の自分が暴露された想いだった。
 ゴールしたとき、「もう走りたくない!」と本気で思ったものの、帰国のフライト中も不甲斐なかった自分が情けなくて悔しくて、いてもたってもいられない気持ちだった。初日のクラッシュで痛めた背骨は、病院で検査したところ背骨の突起部が欠けていたものの、時間が経っていたためすでにくっついていた。背中の痛さは帰国して間もなく消えたが、心の痛みは強くなるばかりだった。
 このファラオラリー出場記は、数誌の雑誌に掲載されたが、どこで聞きつけたのか、僕の出身地(山形県鶴岡市)の地方紙・山形新聞からラリー出場の取材を受け、3面記事に大きく取り上げられたのは嬉しかった。実はお金がなかった僕は、出場費用の不足分の50万円を親から借りての出場だった。そのため、地元新聞に取り上げられ、田舎で話題になったことは、少しでも親に恩返しができた形となったからだ。出場マシンのXLX250Rが戻ってきてからは、東京・新宿アルタ(CX-TV「笑っていいとも」のスタジオがあるファッションビル)にファラオラリーコーナーを設けていただき、出場マシンと写真パネルを展示した。日本ではほとんど知る人がいなかったファラオラリーも僕らの出場で徐々に知名度を上げていった。
 当時は海外ラリーに出場する日本人がまだ少なかったこともあり「ファラオラリーに出たんですか。凄いですね」と、多くの人から尊敬のまなざしで見られたものの、ラリーで知らされた自分の弱さと不甲斐なさを自分自身に隠すことはできない。かっこよく見せたい自分と、思い出すと赤面するほどの情けない自分との格闘で辛い気持ちが続いた。このまま悔いを残して終わりたくない。しかし、再出場するにもお金がない。自分では解決することもできず、欲求不満のはけ口がないようなモヤモヤした気持ちが続いた。

自分への悔しさとこのままでは終わりたくないという気持ちが、翌1985年のファラオラリーに再チャレンジすることになった。

自分への悔しさとこのままでは終わりたくないという気持ちが、翌1985年のファラオラリーに再チャレンジすることになった。

 そんなある日、いっしょにファラオラリーに出場した菅原さんから「今度のファラオラリーに出る予定のバイクが1台残っているから出ない?」と声をかけてもらったのだ。僕はちゅうちょすることなく、「出ます。出させてください!」と菅原さんにエントリーをお願いした。今度のマシンは登場したばかりのホンダXL600Rファラオだった。ホンダがファラオラリーをイメージして名付けたバイクだった。出場すると決めてからは、お金の心配も「また借りればいいじゃないか」と自分に都合のいい解釈で解決。頭の中はリベンジ・ファラオラリーでいっぱいだった。海外ラリーを1度経験したいま、初めてだからという言いわけは通らない。今度こそ自分との本当の闘いだ。どこまで耐え切れるか、自分は本当に不甲斐のない弱い人間なのか、自分自身を試すチャレンジでもあった。
 次はリベンジ『第4回ロスマンズファラオラリー1985』の参戦記をお伝えする。

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